最近ふと思うこと。刷り込みの社会。

鎌倉の小町通りに、毎年恒例?の七夕のために、竹と小学生が書いたであろう短冊がぶら下がる季節になった。

先日歩いているときにふと目に入った短冊には、

「健康に、毎日過ごすことができますように」

と書いてあった。 

今の小学生ってこんな素朴なことを短冊に書くのかな?と他の短冊にも目を通すと、

「パティシエになれますように」とか

なんとかになれますように といった、将来の夢が書かれた短冊がぶら下がっていた。

最近の疑問は、私たちみんな、いつしか

夢は大きく!DREAM BIG!

みたいに、勝手に刷り込まれている気がした。

夢が大きくないとカッコ悪いみたいなね。

4年前、NYに住みだして、気づいたことが、大きい夢を持つことがどんだけ恵まれた環境にあってのことか、ということ。 そして、東南アジアを旅して思うのはやはりそこ。明日が約束されていない人々にとっては、明日の食べるものを見つけるのに精一杯。むしろ、今日生き抜くのが精一杯。夢なんてかかがげて、ぼーっとしている暇なんてないのだ。

夢が大きいのがよくないとかそういうことではなくて、こうやって毎日呼吸をして、生きていることが当たり前ではないっていうことを思い知らされる。

夢は大きくないと、と刷り込まれ、そういう社会で生きてきた私たちは、夢が大きくないと、なにか劣等感を感じるような社会になっている。 

目立つ、大きいことをしていないと、成功していないとか、

雑誌に出たから成功してるとか。成功している、していないの判断が偏りすぎなきがする。

自分が好きなことをして、誰にしられているわけでもなく、ただただ毎日ハッピーに過ごせていれば、それはその人にとっての成功だと思う。

インスタグラムのフォロワーがいっぱいいようが、いなかろうが、それこそリア充していないと。

日本に帰ってきて、SNSや、メディアの力に左右され、本質よりも、そこでその人の価値が図られる社会に?を感じていた。 

ある小学生の短冊をみて、心なしか安心した。

毎日健康に、暮らしていることが約束されているかのように、私たちは大きな夢を持つ。そして、大きな夢をもてと言われ続けてきた。あたかも毎日健康に過ごせますように、と願うことが夢のないつまらない人間かのように。

どこから始まったかさえわからない社会的価値、や、こうではないといけないみたいなものではなく、一人一人の考えを批判、賛成、なくそれはそういうものとして受け入れる社会が必要だと思う。日本はいろいろ整って、住みやすい分、そういう部分での窮屈感が半端ない。帰国してから4ヶ月がすぎ、インドネシアの自由さが恋しい。

私たちが、ここまで、のんのんと、平和ボケでやってこれた日本ももう終わりつつある。自分のこれからは自分で選択しないといけないときすべてを誰かに否応なしなしにコントロールされる時代が迫っている。人任せにできない時代。参議院選挙を目前に、みんなに考えてほしいな。